明治末から昭和にかけて、新たな機運の中から名工と讃えられた大工が登場し、数々の名建築を残した。残された図面や道具などの資料から、棟梁としての人物像、ものづくりの精神、技法・作風を振り返る。
江戸末期から昭和までの四代に及ぶ数寄屋大工。歴代それぞれが多彩な数寄者と交わり、その継承は長きに渡った。三代目と四代目の茶室群は現存するものが多く、今日でも茶の湯文化継承の舞台となっている。
戦前における京数寄屋の名人として名が高い。明治から大正にかけて、名工・上坂浅次郎の門下であったとされる。古典を踏まえつつ建物の用途に応じてデザインと技術を巧みに使い分ける作風で、またその仕事ぶりは「仕事の虫」と讃えられる程であったという。
明治27年(1984)に8代目の次男として生まれ昭和3年(1928)に9代目を襲名する。生粋の町屋大工棟梁であり、丸物を使う数寄屋建築も得意とした。手掛けた町屋は100棟を超える。作品づくりとともに、茶室・日本建築を伝える著述も残している。
明治31年(1898)に生まれ、父の嘉三郎から「数奇屋師」として育てられる。また、15歳から茶道を習い、茶道に関する深い知識と経験を備えていた。現代の茶室の基本形の一つを家元とともに創り上げた人物である。代表作は東京出張所(東京都千代田区)。
明治39年(1906)生まれ。叔父で高名な大工、水田常次郎の許に弟子入りした。1953年頃から裏千家家元の仕事に携わり、1966年には松下幸之助の茶室を手掛けて評判を得た。吉村順三や磯崎新など建築家との協働も中村の仕事の特徴である。
昭和の初めから同30年代まで、大阪を中心に活躍した。藤原新三郎の下で修業し、後に事実上の後継者となる。墨壺にみられる江戸期からの大工技術の一つの華である彫り物技術や製図技術に堪能であった。自伝『大工一代』(池田書店、1961)は映画化されている。(「大工太平記」東宝、1965)
戦後関東の数寄屋建築を牽引してきた水澤工務店の創業者。明治23年(1890)新潟県長岡市で大工棟梁の長男として生まれ、19歳で上京。早くして技を極めた水澤は企業経営者としても才能を発揮し、大正3年(1914)に水澤工務店を創業。水澤工務店は、建築家・吉田五十八との出会いもあり、近代数寄屋の発展に欠かせない存在へと成長した。