トーヴェ・ヤンソンの仕事 ー 『GARM』の挿絵画家

風刺雑誌『GARM(ガルム)』は、A4判をひとまわり大きくしたサイズで、頁数について15頁から40頁、たいていは一色刷り、月一回か二回(しばしば不定期)発行の雑誌である。フィンランド国内の親独のファシストや親ソのコミュニストの双方から嫌がらせをうけ、両大国の機嫌を損なうことを怖れるフィンランド政府当局に検閲され、慢性的な紙不足に苦しみながらも、1953年の編集著ヘンリー・レインの死が廃刊をもたらすまでの30年にわたり、ヘルシンキ在住のスウェーデン語系の人々の知的な交流のフォーラム(広場)であった。
創刊以来の編集長レインは過激な反ファシスト闘争で名をはせ、「ブラックリストの三番目に載っていた」という豪傑で、創刊時に掲げた3つのスローガンは「スウェーデン性」「自由」「北欧」だった。
第一の「スウェーデン性」は、1930年代に激しさを極めた<純正フィンランド>運動にたいする、言語的少数派としての抵抗である。第二の「自由」は、具体的にいうと禁酒法や検閲制度などの法的規制にたいする抗議である。悪名高い禁酒法は1919年から32年まで施行されたが、『ガルム』はこの法律を好んで揶揄の標的にした。こうした身近な問題や不都合を扱うことで、より根源的で深刻な不自由を摘発しようとしたといえる。第三のスローガン「北欧」は、フィンランド国内の二大勢力であった親独派と親ソ派に反撥し、ナチスの全体主義やスターリンの独裁に屈さず、他の北欧諸国と連帯して自主独立を保てと主張することであった。
フィンランドの内外のあらゆる種類の独裁や抑圧をちゃかして笑い飛ばすという明快な信条を掲げた『ガルム』は、同種の先行雑誌『灯台』(フィーレン)や『ルシフェル』以上に、スウェーデン語系の作家、風刺画家、学者、芸術家、ジャーナリストの拠点となり、創刊の翌年には、ヴィクトルの友人のマルクス・コリンやアルヴァル・カヴェンらを含む多くの画家がこぞって参集し、そのなかにシグネもいた。ごく自然に娘のトーヴェも15歳でデビューし、ストックホルム留学を終えて1933年に帰国してから1953年の廃刊号にいたるまで、もっとも生産的で創造的な挿絵画家となる。『ガルム』での活動と並行して実体化しつつあったムーミントロールが、作者の署名がわりに紙面を賑わせるようになるのも、また自然のなりゆきだったのである。
(冨原眞弓「ムーミン谷への遠い道のり」『ユリイカ』1998年4月号、青土社より抜粋)

わたしは『ガルム』の仕事が好きでした。なによりも、ヒトラーとスターリンを存分にこきおろせたので。(トーヴェ・ヤンソンの言葉)

ともかく、なんにせよ、彼は狼を捉えたのだ。いつの日か、自明かつ熟考の結実樽数本の描線で、獰猛にして情感をたたえて、これまで書かれたなかで最高に生気みなぎる一匹の狼を描くにちがいない。(「狼」筑摩書房)