1:大入鑿 (おいれのみ)
大阪で活躍した鍛冶名工、三代目善作(本名:松原重次郎、明治42年〜昭和中期)の作。明治神宮外拝殿、観世能舞台等を手がけた棟梁・野村貞夫氏の旧蔵品。柄の首で捩れた墨流しの模様が特徴。この木目調の地肌は、硬い地金と柔らかい地金を鍛え合わせ、薬品につけることであらわれる。三代目善作は昭和28年(1953)頃、注文したい大工たちが探し回ったが消息不明となってしまう。今日でも「幻の善作」と呼ばれる謎めいた名工である。
2:筬定規(おさじょうぎ)
曲線の形をうつしとる道具。竹ひごを束ねて、両側から押さえてある。この竹は動くことができるため、丸太に沿わせてあてれば、その断面のかたちが出来上がる。その形をさらに他の面にうつしとり、丸太の複雑な接合部分を、隙間なく綺麗におさめることができる。丸太を多用する数寄屋大工の技を端的にものがたる道具。
3:釿(ちょうな)
木材を荒加工する道具が釿。丸太を削ぎおとして梁材をつくりだしたり、梁と束が接合する座面をつくりだす等の加工を行う。さらに、名栗(なぐり)としてはつり痕を装飾的にみせることも多い。釿の柄は大工自らが、身の丈に合った使い勝手のよい曲がり具合につくりだす。あたかも、大工の身体を写しとった道具。
4:墨壺(すみつぼ)
日本の大工道具は実用本位であり、装飾が施されることは少ない。だが例外的に、木材に墨で基準線を打つ「墨壺」には、豊富な意匠が刻まれることが多い。そのモチーフは鶴亀などの縁起物が多く見られるが、展示品の墨壺は題材が極めてユニークである。墨壺のなかに、大工が墨を打つ「棟梁墨掛姿」が刻まれているのである。
5:儀式用墨壺(ぎしきようすみつぼ)
建築工事の節目には、地鎮祭や釿始、上棟式などの儀式を行う。大工の名家には、儀式のための道具が伝来する。実用道具とは異なり、儀式道具は装飾に富む。この墨壺も、菊水、松竹、鶴亀といった飾金具が張られた壮麗な姿をみせる。裏には「禁裏様御大工惣官頼重」と銘がある。「禁裏」とは天皇が住んだ京都の御所。後方がわれた形も古式をとどめ、江戸時代の御所に携わった大工・頼重が使用したものと考えられる。
6:鋸(のこぎり)
中央の鋸は畔挽鋸(あぜびきのこ)。刃渡りが短く、刃先が湾曲しているので平面から挽きこむことができる。鋸の名人、二代目宮野鉄之助が神戸の大工・笹瀬善雄のため、昭和8年に制作。播州三木(兵庫県)は大工道具の一大産地であるが、そのなかでも宮野鉄之助は最高峰の鋸鍛冶。古式の日本鉄「玉鋼」(たまはがね)を打つ技術を伝承し、刀匠でもあった。
7:鯉の墨壺(すみつぼ)
この墨壺は、全体のかたちを鯉に仕立て、大変ユニークな姿をみせる。墨壺は、長い基準性を出すための実用品である。その一方、儀式道具や実用を離れた飾り物として制作されることもある。
8:前挽大鋸(まえびきおが)
山から伐り出した丸太を、板などの建築材に挽く職人が木挽(こびき)である。その木挽の代表的な製材用鋸が前挽大鋸。撮影したのは、前挽大鋸の産地として名高い近江甲賀製。一見、巨大な荒々しい道具にみえるが、刃先の精巧な造り、力学を考慮した柄の曲がり具合など、繊細な仕掛けが満載されている。
9:千代鶴太郎の鉋刃 「初契」(はつちぎり)
千代鶴太郎(本名:加藤太郎、明治40年〜昭和8年)がはじめて制作した鉋。太郎没後、名工である父・千代鶴是秀(本名:加藤廣、明治7年〜昭和32年)が「初契」と銘を打ち、焼入れし直した。画面で背景をなす書は、是秀が三木の鍛冶・千代鶴貞秀へと宛てた手紙である。太郎を失った悲しみを受け止め、人生を切り開いていく決意が高揚感ある筆致で綴られている。
10:千代鶴是秀の鉋刃「嵯峨の秋」(さがのあき)
鍛冶名工の最高峰、千代鶴是秀の作。切銘にみられるように、大工・渡邊助蔵につくったものだが、後に「譲り状」とともに、神戸の大工・笹瀬善雄の所有に移った。大正14年、是秀52歳の制作。錦色に彩られた京都嵯峨を彷彿とさせる。
11:鉋刃「香憶」(こうおく)
千代鶴是秀の長男・太郎の鉋刃。鍛冶、そして彫刻家としての道を歩み始めた矢先、太郎は昭和8年、27歳の若さで自殺してしまう。この鉋刃には、「太郎遺作」とも刻まれている。これらは、太郎没後に父・是秀がタガネで追刻したものである。後継を失った是秀が名づけた銘「香憶」とともに、謎に包まれた鉋刃である。
12:鉋刃「神雲夢」(じんうんむ)
鍛冶名工の最高峰、千代鶴是秀が79歳の晩年に手がけた。是秀は米沢藩お抱えの刀鍛冶の家系・石堂家に10歳で入門。26歳で独立後、生涯にわたり名作を生み続けた。その切れ味にとどまらず、象徴的な銘と高い意匠性からも大工道具を芸術の域まで高めた「不世出の名工」と呼ばれる。「神雲夢」には裏スキの縦目や端部の段付加工など、是秀が到達した卓越した技をみることができる。
13:鉋刃「重房」(しげふさ)
会津の鍛冶名工、若林重房の作。19代続いた会津鍛冶の名家である。会津は古くから東日本における道具鍛冶の産地である。そのルーツは、近江の蒲生氏郷が16世紀末期に会津に移封となった際、各種職人を移住させた中に鍛冶技術が伝播したものといわれる。明治に活躍した若林重房は、この会津刃物の中興者ともいわれる。
14:梅一(うめいち)の鉋刃
大阪で活躍した梅一は、加賀の刀鍛冶の系譜を伝える清光七代目。大正時代に大阪へ移った。当時、同じく大阪で活躍した名工「善作」と並び、大工のあいだで評判の高かった名工。梅のかたちをあしらった枠に「一」の字を描く。
15:善作(ぜんさく)の鉋刃
大阪で活躍した名工・善作の鉋刃。善作は鑿鍛冶として著名であるが、様々な道具も幅広く手がけていた。この鉋刃は二代目善作(松原徳太郎)のもの。墨流しの大入鑿(おいれのみ)を制作した三代目善作の兄にあたる。松原家の家紋である蔦に本家を意味する「本」、そして「善作」と銘が打たれる。
16:源兵衛(げんべえ)の鉋刃
源兵衛は幕末から明治にかけて関西で活動していた名工。明治中期には廃業しており、不明な点が多い鍛冶である。頭が尖った古式の鉋の形をとどめる。「源兵衛」の文字に菱形をあしらったシンプルな銘もあいまって、古風な佇まいをみせる。
17:「大工棚雛形」から 円月窓
嘉永3年(1850)「大工棚雛形」から床の間の脇に設けられた「下地窓」の図。下地窓とは、土壁に窓を開けて、土壁の下地に編まれた格子をみせた数寄屋のデザイン。円形を中央に配したこの図案は、ひときわモダンな意匠をみせる。
18:「大匠絵様 雑工雛形」から 唐様狭間之図(からようさまのず)
嘉永3年(1850)刊の「大匠絵様 雑工雛形」から「狭間」の図。狭間とは欄間のように木枠に囲われた部分や窓穴の意味で、その「絵様」(デザイン)を描く。「唐様」、すなわち異国風のデザインを紹介している。
19:「大匠絵様 雑工雛形」から 牡丹獅子鼻(ぼたんししばな)
嘉永3年(1850)刊の「大匠絵様 雑工雛形」から「木鼻」(きばな)の彫刻図案。木鼻は、柱の頂部から横へ突き出すように設けられた部材である。獅子に牡丹があしらわれるが、どちらも建築彫刻では多用されるモチーフ。
20:「規矩真術 軒廻図解 上巻」(きくしんじゅつのきまわりずかい)
安政3年(1856)の木版本に描かれた挿図。規矩とは、日本建築の複雑な納まりを決める技術で、寺社建築でみられる美しい反りをつくりだす。画面では、水平と垂直の基準を出す装束姿の大工が描かれている。曲尺とともに、墨壺を下げて垂直をみている。垂直を出す道具は「下げ振り」が用いられるが、こうした墨壺の使い方もあった。
21:「匠家必用記 下巻」より 釿始め(ちょうなはじめ)
大工にまつわる様々な習俗を描いた「匠家必用記」から釿始めの場面。本書は宝暦6年(1756)の木版本。建築儀式には、地鎮祭、釿始め、上棟式などがある。釿始めは、起工式で行われる場合と新年の仕事始めとして行われる場合があり、墨壺で線を引き釿で材をはつる所作を神前で奉納する。画面中央に、儀式装束に身をまとった釿を使う大工が描かれている。
1:旧岩崎家 末廣別邸
大正14年(1925)頃
三菱財閥の3代目社長、岩崎久彌の別邸。
主屋/写真上
旧岩崎家末廣別邸の中心となる建物。カタクリ、ツツジ、紅葉、梅が植栽される中庭の西側に玄関を、南側に座敷を並べ、東南には座敷と数寄屋の六畳間が張り出す。北側には台所や浴室が配置されている。当時の最先端の設備器具が設置されていた。外周のガラス障子の意匠は繊細で周囲に廻らされた庇とともに、軽快で外部と内部を緩やかに繋いでいる。天井裏と床下の一部に鉄板による補強が加えられており、耐震構造を意識した造りであることがうかがえる。設計を担当したのは、岩崎家専属の建築家・津田鑿と考えられている。
東屋/写真下
主屋の南東に位置し、主室と台所から構成された建物。主室周囲に吹き放ちで軒の深い下屋を廻らせ、全て土間としている。杉の面皮柱や、天井には辛夷(こぶし)の皮付き丸太を用いるなど、野趣溢れる材料を吟味して数寄屋風の造りとし、洋間を持たない主屋の機能を補う「ゲストハウス」として建築されたものと推定される。久彌が残した邸宅の中で現存する東屋は貴重である。
2:聴竹居(ちょうちくきょ)
昭和3年(1928)
京都府大山崎町の天王山の麓に建つ「聴竹居」は、建築家・藤井厚二(1888〜1928)の第5回目の実験住宅(自邸)である。「竹の音を聴く居」と名づけられた「聴竹居」は、茶道や華道を嗜んだ藤井自身の雅号でもあった。真に日本の気候・風土と日本人の身体やライフスタイルに適合した「日本の住宅」の理想形を生涯追い求めた藤井厚二の研究と実践の集大成で、日本を代表するモダニズム建築20選に選ばれ、環境共生住宅の原点とも言われている。
西側外観/写真上
西側から柱が無く風景を取り込む窓が連続する縁側を望む。京都から続く三川(宇治・木津・桂)が合流して淀川となる雄大でパノラミックな風景を取り込む窓が連続する縁側。伝統的な大工の技(桔木(はねぎ))により、視界を遮る柱を無くしている。
居室内観/写真下 右手奥が食事室
居室北側の壁面には、スコットランドの建築家・マッキントッシュのデザインに似たゼンマイ仕掛けの時計、神棚、床の間にある違い棚風の棚が、さらに右手奥に続く食事室との間を緩やかに遮る1/4円形のスクリーンが設えられている。和と洋、モダンが融合する空間。
撮影:2013年12月/京都府大山崎町
3:三溪園 臨春閣(りんしゅんかく)
慶安2年(1649)
三溪園の土地は、三溪 原富三郎の養祖父である原善三郎が明治元年(1868)頃に購入したものである。単に各地の建物を寄せ集めただけではなく、広大な敷地の起伏を生かし、庭園との調和を考慮した配置になっている。臨春閣は、和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)と考えられている。内部に狩野派などによる障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠を随所に見ることができる。大正4年(1915)に移築された。
三溪 原富太郎は岐阜県出身の実業家で、横浜の原商店に養子として入り、生糸貿易で財を成した。原は事業のかたわら仏画、茶道具などの古美術に関心を持って収集した。平安時代仏画の代表作である「孔雀明王像」(国宝、東京国立博物館蔵)をはじめ、国宝級の美術品を多数所蔵し、日本の美術コレクターとしては、鈍翁 益田孝と並び称される存在であった。彼は古美術品のみならず室町時代の旧燈明寺三重塔をはじめとする京都ほか各地の古建築を購入して移築、庭園も含めて整備を進めていった。
主室/写真上
臨春閣第三屋の2階、欄間部分には百人一首の襖絵が貼られている。障子を開けると全面に庭園が見える。
亭榭(ていしゃ)/写真下 大正頃
臨春閣第二屋から臨む木造の橋の上にある東屋。三溪自らの設計という。
撮影:2013年12月/神奈川県横浜市
4:妙喜庵 茶室「待庵」
天正10年(1582)頃千利休の作と考えられる、現存唯一の茶室。京都の大山崎、妙喜庵に伝わる。茶匠・利休が追求した侘茶の空間が、このわずか二畳の茶室に凝縮される。床の奥の柱を壁に塗り込めて隠し、大振りなスサが散りばめられた荒壁、床柱や床框の節・木目を大胆に意匠に取り入れるなど、それまでにない独創的な構成が創出されている。
撮影:2013年12月/京都府大山崎町
5:佐川美術館 樂吉左衞門館 付属「盤陀庵」
平成19年(2007)
樂吉左衞門館に併設されている現代茶室。3畳半。樂吉左衞門館同様、第15代樂氏自らが設計の創案を行った。茶室は、水没する小間と水の中に浮かぶ広間からなる。広間の床の高さは水庭の水面と可能な限り同じレベルを保つように考えられている。「水面と同じ高さに座す。人は自然と同じレベル、目線で生きていかなければならない」という思いが込められている。意匠には、現代の素材を追求して、解体した古民家の煤竹を用いた天井、バリの古材を使用した床柱、越前和紙を張り巡らした茶室内部の壁、アフリカ産の黒御影の床框、ブラックコンクリートの壁を使用している。
撮影:2013年12月/滋賀県守山市
1:久住章(くすみ あきら) / 左官(さかん)
昭和23年(1948)生まれ。18歳で長兄について左官の修業を始め、主に地元淡路での仕事に従事する。ドイツアーヘン工科大学の夏期講師に招かれたのを機に、世界各地の土壁を見てまわり、独自の技をつくりあげる。また、京都の宇田左官に弟子入りし、桂離宮の修繕などを手掛けた。こうした伝統的な左官技術の習得と並行し、建築家と共同で左官デザインを創出している。主要な著書に、『壁の遊び人=左官・久住章の仕事』。 撮影:2013年9月/京都府京丹波町
2:都倉達弥(とくら たつや) / 左官(さかん)
昭和62年(1987)生まれ。 町家大工棟梁の父の影響を受け左官 原田進氏の元に弟子入り。 5年の修行を終え、ドイツアーヘン工科大学で講師に従事。 フランス・スロバキア・南アフリカなど多数の国で講師として招かれワークショップを行い、出会った人たちと壁を塗りながら、世界12カ国を巡る。 それらの経験を元に日本の技術を世界に発信し、左官の新しい可能性を見出そうとしている。現在は、勝又久治氏の元で日本伝統技術の修行に励む。 撮影:2013年9月/兵庫県淡路市
3:山口陽介(やまぐち ようすけ) / 庭人(にわびと)
昭和55年(1980)長崎県波佐見町生まれ。高校卒業後、京都の庭師の元で作庭を修業し、その後ガーデニングを学ぶためイギリスに渡り、王立植物園KEW内の日本庭園を担当しつつ、イギリスで生活に根ざしたガーデニングを学ぶ。帰国後、地元長崎にて植木屋の二代目として造園業を営む。 「僕は庭師ではなく、庭と共に育つただの人でありたい」と語る。 撮影:2012年4月/千葉県九十九里
4:雨宮国広(あめみや くにひろ) / 大工(だいく)
昭和44年(1969)生まれ。20歳で大工である父親に弟子入りし、30歳で独立。豊かな自然を残す甲州で雨宮大工を営む。手道具に徹した伝統技術にこだわり、活動は住宅建築にとどまらない。石斧による加工技術実験に携わるなど、手道具の原点として、縄文時代の技術にも辿りつく。ドイツの職人とともに木組の住宅建設を行うなど、国際的な技術交流にも力を注ぐ。 撮影/2013/10/山梨県甲州市
5:錦清水(にしき きよみ) / 鑿鍛冶(のみかじ)
昭和13年(1938)生まれ。13歳のときに兄に弟子入りし、播州三木(兵庫県)で半世紀にわたり鑿鍛冶に従事する。とりわけ夫婦での鍛冶作業はとても珍しい。鑿製作は手道具に徹し、松炭を使用した古式を守り続ける。格子をつけた鍛冶工房のしつらいも、播州三木でも今では数少ない、昔ながらの佇まいをとどめたものである。 撮影:2013年7月/兵庫県三木市
6:相良育弥(さがら いくや)/茅葺職人(かやぶきしょくにん)
昭和55年(1980)生まれ。 淡河かやぶき屋根保存会くさかんむり代表。 宮澤賢治に憧れて大地に生きる百姓を志すも、 減反で米がつくれず「三姓」止まりに。 そんな時に出会った茅葺きの親方に言われた 「茅葺き屋根は百姓の業で出来ている」との言葉で弟子入り。 しばし土から離れ空に近いところで百姓の住まう業を学び、 修業を終え平成23年に独立。 現在はふるさとの神戸市北区淡河町を拠点に、 空と大地、農村と都市、昔と今、職人と百姓のあいだを草で遊びながら、茅葺きを今にフィットさせてゆく活動を展開中。 撮影:2013年9月/兵庫県淡路市
7:山田脩二(やまだ しゅうじ) / 瓦職人(かわらしょくにん)
昭和14年(1939)生まれ。昭和37年からフリーのカメラマンとなり、建築や美術、造形などの写真を撮影。だが昭和57年、写真家を辞めて瓦職人になることを宣言し、淡路島に「山田脩二 あわじかわら房」を設立して、現在に至る。その瓦は、建物の屋根だけでなく、壁面や庭、通路、水面などに造形要素として使われていることも多い。著作に『カメラマンからカワラマンヘ』『日本の写真家39 山田脩二』ほか 撮影:2013年10月/兵庫県南あわじ市
8:鈴木延坦(すずき のぶひろ) / 襖骨師
昭和16年(1941)生まれ。代々襖骨師の家系を受け継ぎ、三代目になる。厳格で典型的な「明治の職人」であった父親から、16歳の頃から技術を学ぶ。以来半世紀にわたり、全国各地の寺社の襖骨の修復、住宅や茶室の襖を手がける。骨師としての仕事は多岐にわたり、平山郁夫画伯の額縁など、絵画の仕事にも及ぶ。 撮影:2013年10月/東京都江東区
9:堀木エリ子(ほりき えりこ) / 和紙デザイナー
昭和37年(1962)生まれ。高校卒業後、4年間の銀行員生活を経て、和紙商品開発会社へ。昭和62年にSHIMUSを設立し、様々な空間で和紙の新しい表現に取り組む。平成12年、堀木エリ子&アソシエイツ設立。「建築空間に生きる和紙造形の創造」をテーマに、職人と共同でオリジナル和紙を制作。商業施設、公共施設、舞台美術、アートなどの多彩な分野で、革新的な活動を展開する。 撮影:2014年1月/京都市
10:阿保昭則(あぼ あきのり) / 大工(だいく)
昭和31年(1956 )生まれ。小学生の時、大工が鉋で木を削った瞬間、古かった木が魔法のようにきれいになっていくのを見て感動、大工になることを決心。中学卒業と同時に大工修行に入る。わずか3年で独立し、20歳にして独りで家を建てた。全国各地の現場を回りながら技を磨き、平成10年には鉋の薄削りで3ミクロンという日本記録を出す。平成12年に耕木杜を設立し、自然素材と熟練の手わざを生かした住宅建築・家具の製作に取り組む。 撮影:2013年5月/千葉県茂原市
11:小川三夫(おがわ みつお) / 堂宮大工(どうみやだいく)
昭和22年(1947)生まれ。高校生の時、修学旅行で訪れた法隆寺に感激し、堂宮大工を志す。21歳で「最後の宮大工」と呼ばれた西岡常一棟梁の唯一の弟子となる。法輪寺三重塔、薬師寺西塔・金堂の再建で副棟梁を務める。昭和52年、独自の徒弟制度による「鵤工舎」を設立。平成15年「現代の名工」に選ばれる。平成21年 黄綬褒章受賞。『木のいのち木のこころ<地>』『不揃いの木を組む』『棟梁-技を伝え、人を育てる』など著書多数。 撮影:2013年12月/奈良県法輪寺
12:宮本雅夫(みやもと まさお) / 鉋鍛冶(かんなかじ)
昭和2年(1927)生まれ。大工道具の産地、播州三木(兵庫県)で鉋鍛冶を営む。小学校卒業後、父とともに家業に従事。以来、鉋作り一筋65年。松炭による古式の鍛錬が特徴で、つくり出す鉋は全国各地の名だたる大工棟梁たちから高い評価を得ている。平成11年には「伝統工芸士」の認定を受ける。会場では作品「宮本雅夫の手」が展示されている。 撮影:2013年7月/兵庫県三木市