女性監督が切り拓く女性像

「女性映画人の活躍は世界の映画界を活性化する」という信念のもとに1985年、髙野悦子は、東京国際女性映画祭をスタートさせた。監督を夢見て挫折した経験のある髙野は、世界の現状を映画祭という形で日本に紹介すれば、若い女性たちに勇気と希望を与えるに違いないと考えた。ところがすぐその後に、女性映画祭とは何だ、時代錯誤だ、女性が女性を差別するものだという声が耳に入ってきた。
しかし、この問題はすぐに解決する。第一回目の記者会見で、「なぜ、女性が映画を作るのですか」と質問した男性に、フランス代表のジャンヌ・モローは答えた。「私たちは男性のコピーではありません。これまでの男性文化に女性の視点を加えて、真の人間文化をつくるのです。」
モローの発言に誰も反論する人はなかった。髙野は、初めて女性映画祭を開催することの意義への想いをますます高めた。

ジャンヌ・モローの思春期  1979  L’ADOLESCENTE
監督/ジャンヌ・モロー

ジャンヌ・モローの監督第2作目。第二次世界大戦が始まる直前のフランスの小さな舞台に、12歳の少女マリーが経験する甘くせつない夏休みを描いている。1985年の第1回東京国際映画祭の国際女性映画週間で上映され、好評を博した。ジャンヌ・モローは、数々の名作によって知られるフランスの代表的な女優である。オーソン・ウェルズやフランソワ・トリュフォー、ルイス・ブニュエルなど一流監督のもとで共同作業を続けてきただけに、演じる側から監督する側への移行はごく自然だったという。この作品でも奇をてらった演出や技術はいっさい排し、思春期の動揺を丁寧に撮り、世代を超えた共感を呼ぶことになった。

ねむの木の詩がきこえる  1977  MARIKO-MOTHER
監督・脚本・音楽/宮城まり子

1977年に10年目を迎えた肢体不自由養護施設「ねむの木学園」の園長、宮城まり子が、前作「ねむの木の詩」に引き続いて製作した映像詩である。
やっちゃんとよばれる自閉症児の心を徐々に開いていく過程が、学園の日常生活を絡ませながら、ソフト・フォーカスの美しい画面で綴られていく。全国に先駆けて岩波ホールで公開されたこの映画は、足掛け5か月にわたる大ヒットとなった。

森の中の淑女たち  1990  THE COMPANY OF STRANGERS
監督/シンシア・スコット

ドキュメンタリー映画で評価の高いシンシア・スコット監督の長編劇映画第一作である。出演者の平均年齢は76歳で、一人を除いては全員演技経験がなく、脚本も渡されていない。映画の内容を決めたのは、初めてカメラの前に立つ彼女たちの生き方、人生経験、自発性そのものであった。脚本家のグロリア・デマーズは、映画の設定よりも出演者の一人一人の人生の思い出と人柄を細やかに記録し、集めることに努力した。そして、スコット監督は、彼女たちとの暖かい交流からスクリーンにそれぞれの存在感を引き出し、描くことに成功した。

AKIKO-あるダンサーの肖像  1985  AKIKO-A PORTRAIT OF A DANCER
監督・脚本/羽田澄子

アキコ・カンダは、モダンダンス界の第一人者である。この作品は羽田澄子監督が「マグダラのマリア」公演に向けての準備から、舞台上、そして日常生活におけるさまざまなアキコをとらえている。羽田監督は、1982年、映画歴三十年の集大成ともいうべき三時間五分の長編記録映画「早池峰の賦」を完成。五月にエキプ・ド・シネマでロードショー公開された。そして観客の要望に応えて一か月後アンコール上映という記録的成功を収めた。この成果により、同年、女性監督としては第一号の芸術選奨文部大臣賞を受賞。1984年にはエイボン芸術賞を受賞した。

落穂ひろい  2000  LES GLANEURS ET LA GLANEUSE
監督・脚本/アニエス・ヴァルダ

フランスの映画界の重鎮アニエス・ヴァルダ監督がデジタルビデオカメラで作り上げたドキュメンタリー。ゴミや環境問題といった社会的なテーマを追いつつも、単なるドキュメンタリーの枠に収まらない独特の芸術作品である。世界各地の映画祭で上映され、大きな反響を呼んだ。ある日、市場でものを拾う人たちを見ていたヴァルダは、腰をかがめる人びとの動作からジャン=フランソワ・ミレーが描いた『落穂拾い』を思い出す。自らがハンディカメラを持って旅に出かける。ヴェルダ監督は、フランス各地でさまざまな”落穂拾い”たちと出会う。

平塚らいてうの生涯  2001  THE LIFE OF RAICHO
監督/羽田澄子

女性解放と世界平和のために真摯に生きた平塚らいてうの生涯を、ドキュメンタリー映画の第一人者、羽田澄子監督が描いた記録映画である。日本の女性運動のシンボル存在だったらいてう。1911年に創刊した、日本初の女性だけの手による文芸誌『青鞜』のために彼女が書き下ろした、<元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった>に始まる発刊の辞は有名である。働くらいてうのフィルムがわずか14秒という困難な条件のなか、羽田監督は写真資料や多くの人びとの証言を用い、まるでらいてうに会っているかのような映像を完成させ、『青鞜』以降のらいてうについても光が当てられた。

髙野悦子は、海外の優れた女性監督が制作した映画を、岩波ホールで多く紹介した。それまではフォトジェニックで美しい女性像が多かったが、女性監督の描き方は全く違っていた。映画に登場する女性は、美しくもたくましく、子どもや夫を支え、時には正義をかけて戦い、人生を自らの力で切り拓く。また、人生の終焉に迎える、老いという現実にもスポットが充てられた。思い出に寄り添い過ぎず、人生最後の責任を果たす決意を表し、ユーモラスに人生を楽しむ老女たちの魅力的な姿は、新たな女性像を生んだと言える。
フランスの代表的な女優であり、監督であるジャンヌ・モローはこう語った。「人間の文化をつくるために女性は監督になるのであって、男性のコピーであるなら、やる必要はない。」後に髙野も、語っている。「私たちは映画を通して既成概念をふりはらい、人間の尊さや、人間が生きていく上での大切なことについて学んだ。人種差別や男女差別についてもあらためて考えた。この差別というものは、いつも気を付けていないと、あっという間に覆されてしまう。そして平和がどんなに大切か、『すべての女性運動は平和運動をもって帰結する』というスウェーデンの心理学者、思想家のエレン・ケイの言葉は私の座右の銘である。」