1991年イギリスで<ジャパンフェスティバル>が開催され、髙野はオープニングセレモニーの挨拶を任されることになった。そこで日本映画を50本上映すると決まり、髙野は一人の監督で一本ずつと提案した。イギリス側は、そんなに沢山の優れた監督がいるはずがないと反対した。しかし、髙野は、「50人どころか100人でも皆さんに紹介したい監督がいます。決して質が落ちることはありません。」と説得した。全作品が上映された後、「驚いたことに、すべての作品が水準以上であった」という批評がイギリスの新聞三紙に出た。
1996年には、釜山国際映画祭が誕生する。髙野は満州生まれであり、釜山から下関を何回も渡った経験がある。映画は時代を越え交流を繋ぎ、映画祭委員長のキム・ドンホとの交流を生んだ。2002年、イム・グォンテク監督の「酔画仙」がカンヌ映画祭で監督賞に輝いた。韓国映画が初めて国際的な評価を受けた瞬間だった。それから国際的にもアジアの映画への関心が高まっていくこととなる。
山の郵便配達
1999
POSTMEN IN THE MOUNTAINS 1980年初頭、中国湖南省の山岳地帯。長年郵便配達を務めてきた男は、後継ぎの息子を連れて、初めて一緒に仕事に出る。「山の郵便配達」は、父と息子、そして母の姿を通して家族のあり方、人と人との信頼の絆を、悠久の大自然の中で詩情豊かに描いていく。 |
芙蓉鎮
1985
HIBISCUS TOWN 中国映画を代表する謝普監督が、中国人のだれもが体験した文化大革命の厳しい時代をありのままに描いて、近年の中国でもっとも話題になり、国内の大きな映画賞を独占した作品である。湖南省南端の架空の町、芙蓉鎮。大革命の前兆である四清運動、それにつづく文化大革命の嵐とこの時期、政治の波はこんな小さな町にも容赦なく押し寄せた。ヒロインと彼女を取り巻く人たちの運命が、政治によって大きく翻弄されてゆく姿を通して中国現代史の縮図が鮮やかに描き出される。 |
父と暮せば
2004
THE FACE OF JIZO いかなる悲惨さの中でも変わらぬ人間の尊厳を市井の名もなき父娘に託して、現代日本を代表する作家・井上ひさしが描く傑作戯曲「父と暮せば」(第二回読売演劇大賞「優秀作品賞」受賞)の映画化である。広島の原爆投下から3年、生き残った後ろめたさから幸せになることを拒否し、苦悩の日々を送る主人公・美津江(宮沢りえ)。幽霊となって現れた父・竹造(原田芳雄)に励まされ、悲しみを乗り越え、未来に目を向けるまでの4日間の物語。数多くの秀作を生み、“庶民の日常と戦争”を痛切に語ってきた黒木和雄監督が、戦争レクイエム三部作の完結編にヒロシマを選んだ。原作者・井上ひさしの思いが描かれた感動の名作である。 |
乳泉村の子
1991
BELL OF QUING LIANG TEMPLE 日中戦争は1945年8月に終結を迎えた。敗戦の大混乱の中、軍部はいち早く撤退を進めたが、後に残された民間人は、想像を絶する悲惨な逃避行を余儀なくされ、生死の境のうちに数多くの日本人女性と、生後間もない子どもが中国の大地にとり残された。この作品は中国の河南省、洛陽に近い乳泉村に捨てられた日本人の赤ん坊を、わが子同様の愛情をもって育てた羊角おばあさん一家と、“侵略者の子”という宿命を背負って成長した少年がたどる道程を、謝晋監督が、心暖まる視点で描いた人間讃歌である。残留孤児の問題が、戦後47年を経て急速に風化した現在、中国映画界が暖かい心配りでこの作品を製作した意義は大きい。 |
胡同の理髪師
2006
THE OLD BARBER 北京の旧城内を中心に細い路地、胡同には、伝統的な建築様式で作られた庶民の古い家屋が立ち並ぶ。生活感あふれ、古き良き都の情緒漂う場所として知られているが、オリンピック開催の建築ラッシュが続き、その街並みは姿を消しつつある。「胡同の理髪師」はその一角に暮らす実在の93歳の理髪師チン爺さんの日常をドキュメンタリータッチで描き、人生の「豊かさ」とは何かを静かに問いかける。監督は内モンゴル自治区出身のハスチョロ―。ドキュメンタリータッチの語り口でその才能は高く評価されている。 |
宋家の三姉妹
1997
THE SOONG SISTERS 辛亥革命、日中戦争、国共内戦といった激動の中国近代史を駆け抜けた、靄齢、慶齢、美齢の宋家三姉妹の物語を壮大なスケールで描いた歴史大作である。長女の靄齢は孔子の末裔である孔祥着熙の妻となり、中国を代表する大財閥を築く。次女慶齢は、革命家孫文と結婚し、生涯を革命に捧げ、中華人民共和国の国家副主席となる。三女美齢は、のちの台湾の総統蒋介石の妻となり歴史にその名を残した。監督のメイベル・チャンは「誰かがあなたを愛してる」で多くの女性の共感を呼んだ香港の女性監督である。総製作費四千香港ドル、製作期間は5年にも及ぶ。 |
髙野は1990年、天津で開かれた日中友好22世紀委員会に出席する。そこで、映画監督の謝普に出会う。謝普は、日本人残留孤児や残留婦人に関する箇所あちこちに赤線が引いてある、髙野の著書『黒龍江への旅』を手にし、「これから日本人残留孤児を主人公にした映画を製作します。協力して下さい。」と言った。髙野は、真の日中友好を考える時、日中間の過去の不幸な歴史に関しては、大衆のレベルで率直に、本音で語り合うことが大切だとかねがね思っていた。日本人にも戦争の被害者がいるのだと納得させるのは、さぞ難しいことであろう。日本人による残留婦人、残留孤児の本格的ドラマはまだつくられていない。髙野は謝普に感謝した。それから一年後、謝普監督の作品は「乳泉村の子」として完成した。「乳泉村の子」は、岩波ホール創立25周年、日中平和友好条約締結15周年を記念して長期ロードショーとして上映された。その一年後、関東地区の残留孤児の会<扶桑同心会>の代表が髙野を訪れ〝四海皆為兄弟的友情”という壁掛けを贈呈する。映画が、残留孤児の方々の心に届いたことを髙野は喜び会議室に飾った。