16の同潤会アパートメント

1923年(T12)の関東大震災は、死者行方不明者10万人以上、倒壊焼失家屋40万戸以上の大災害となった。そこで住まいの復興、それも「地震や火事に強い住宅」をとの願いから、1924年(T13)に義損金をもとに内務省の外郭団体として財団法人同潤会が設立した。同潤会は直ちに「木造住宅」の建築に着手。1924年(T14)からは鉄筋コンクリート造のアパートメントを建設した。同潤会のアパートは、当時珍しかった鉄筋コンクリート造の建物に狭いながらも、ガスや水道、水洗便所を備えた賃貸住宅として新しい生活様式を提案した。そして、わずか10年間に東京と横浜の16か所にそれぞれの地域に沿った緻密に設計されたプランで約2800戸を供給した。しかし、太平洋戦争を目前に控えた1941年(S16)、同潤会はその18年に及ぶ歴史を閉じ、アパートの管理は住宅営団に引き継がれた。戦後、住宅営団は解散し、同潤会アパートの多くは、東京都などを経て居住者に払い下げられたが、戦後70年の間に全てが解体された。

中之郷アパートメント

上:『同潤会十年史』

瓦屋根の集会場 通り抜けは子どもの王国

竣工大正15年8月
敷地坪数1079坪
棟数3階建6棟
総戸数102戸
附帯施設阿亭(集会堂)
現状建替/1990年セトル中之郷

同潤会の中で最初に着工した。中庭の通り抜けに配置された瓦屋根の阿亭(集会場)は寺院風の木造建築で、住民のコミュニティの中心であり、冠婚葬祭が執り行われ、いつも子どもの笑い声が響いていた。北側は曳舟川に面し、川沿いの二棟は、一階が店舗併用タイプの住居が並んでいた。青山の第一期と同じ大正15年9月より貸付の申し込みを開始したが、当時珍しかった鉄筋コンクリート造の集合住宅ということでその倍率は7倍という人気であった。入居希望者がどれほどか見当がつかなかった同潤会は、官公庁などに入居案内を多く配布したため、当初の住民には公務員や警察官が多かった。

青山アパートメント

撮影:兼平雄樹

モダン人集うハイカラな卵色三階建て。
参道に咲くアイビーの飾り窓。

竣工大正15年9月 第2期 昭和2年4月
敷地坪数1783坪
棟数3階建10棟
総戸数138戸
附帯施設浴場
現状建替/2006年表参道ゼルコバテラス

表参道のケヤキ並木に沿った三角形の敷地に、3階建て10棟の住棟が配置された。下町のアパートメントに対し、都会の勤め人向け、山の手アパートメントとして位置づけられ、「ハイカラな整備の卵色三階建てアパート」と宣伝され、広場や遊び場を持たないホテル式アパートとしてモダンガール、モダンボーイを呼んだ。建設にあたっては、神聖な参宮通りに面する為反対意見もあり、洗濯干場が見えない高いパラペットを設け、通りからセットバックさせるなどの配慮をした。また共同風呂が各階段室ごと搭屋に設けられた。深いケヤキ並木とアイビーがつたう、趣のあるファサードは人々に親しまれ、居住機能からファッションビルへと機能を変えても街並みを形成し続け賑わった。

柳島アパートメント

上:『同潤会事業報告書』 左下:『同潤会事業報告書』 右下:昭和30年ごろ。左のブロック

時代の精神 コの字に出来た路地裏空間

竣工第1期大正15年9月、第2期昭和2年10月
敷地坪数1547坪
棟数3階建6棟
総戸数193戸(店舗向け22戸)
附帯施設娯楽室
現状建替/1996年プロメール柳島

表通りに沿っての店舗併用住宅棟が一列に配置され、その後ろに、コの字型住棟が三棟配置された。いわゆる南面採光を重視する併行配置では、単調で無機質な景観になってしまうところを、あえて、コの字の配置として、単調にならず、景観への配慮がうかがえる設計であった。このアパートメントは、他と同様に戦後、昭和26年から建物が居住者に払い下げられることになり、居住スペースの狭小性、設備の老朽化と欠損(内風呂がないなど)のため、大々的に増築が行われた。住民の個性が表れ活力に満ちていたため、アジア的風情を持ち、一番ダイナミックに増築が行われていたアパートとして有名であった。

代官山アパートメント

左上:同潤会写真類集 左下:配置図 右:撮影/兼平雄樹

高台から海を臨む。緩やかな坂道の通り庭
そこは都会の異郷でした。

竣工第1期昭和2年1月、第2期昭和2月、第3期昭和2年11月
第4期昭和5年4月
敷地坪数5976坪
棟数2階建23棟、3階建13棟
総戸数337戸(店舗向9戸、独身向け94戸)
附帯施設食堂、浴場、児童遊園、娯楽室
現状建替/2000年代官山アドレス

同潤会アパートの中でも最も広い自然の地形を生かした敷地に、4期にわたって建設された。36棟の住棟がなだらかな斜面に沿い豊かな田園都市空間を作り出していた。2階建ての住棟は敷地の南斜面に、3階建ての住棟は北西の高台に、北西の斜面には独身棟が配され、敷地中央に食堂商店、娯楽室、銭湯が設けられ、渡り廊下でつなげられた。緑豊かで、変化に富んだアパート内の通りは住民や近隣の人々を繋ぐ散歩道であった。住戸プランでは「立体4戸」という二階建ての住棟が建てられ、上下別世帯が入居できる重ね建て長屋の構想を実現した。

清砂通りアパートメント

撮影:内海三郎(昭和30年代)

アパートの花嫁。トライアングルの螺旋階段に
共同炊事の笑い声が響く。

竣工第1期昭和2年3月、第2期昭和2年12月、第3期昭和3年10月
第4-5期、昭和4年3月
敷地坪数4558坪
棟数3階建13棟、4階建3棟
総戸数663戸(店舗向け35戸、独身向138戸)
附帯施設児童遊園、食堂、娯楽室、医療室
現状建替/2005年イーストコモンズ清澄白河フロントタワー

土門拳の世界にいるランニングと野球帽の少年がそこにはいた、、、。婚礼の写真は6号館の花嫁さん。当時は同じ館の住人が協力し合って冠婚葬祭を行った。清砂通りアパートメントは、同潤会アパートメントの中でも最大の住戸数を誇り敷地は6か所にまたがり街区には小学校、公園を内包する周辺地域の拠点でもあった。清砂通りと三ツ目通りに沿った住棟の一階には店舗併用住宅が配置され、通りに面して賑わいのある街区を形成していた。木造の街並みの中に表れた際立ってモダンな16棟の鉄筋コンクリートのアパートは、どんなにか復興のシンボルであったことだろう。

住利アパートメント(旧猿江裏町共同住宅+東町アパートメント)

上:『同潤会事業報告書』 左下:住利アパートメント『同潤会十年史』1934
 右下:東町アパートメント『同潤会事業報告書』

下町の長屋がアーチ回廊のモダン住宅へ。
[旧猿江裏町共同住宅]

茶ぶ台と洋箪笥、ミシンとダストシュート、
モダンが入組むジャポネスク
[東町アパートメント]

竣工猿江1期昭和2年10月、猿江2期昭和5年2月、東町昭和5年6月
敷地坪数猿江3697坪+東町149坪
棟数猿江3階建18棟+東町3階建1棟
総戸数猿江294戸+東町18戸
附帯施設児童遊園、善隣館
現状建替/1994年ツインタワーすみとし

この旧猿江裏町共同住宅は、関東大震災後の不良住宅改良事業によるものでありいわば、スラムクリアランスのモデル事業でもあった。隣接する善隣館は福祉施設でもあり、広い中庭には授産事業(職業訓練)のためのゴザ工場も設けられた。ここで生産されたゴザは、同潤会経営の住宅の営繕用に使われたという。住環境の改善だけでなく、職・医をも含めた改良事業であったことがうかがえる。

山下町アパートメント

上:『同潤会事業報告書』 左下:二号棟平面プラン 右下:『同潤会十年史』1934

ロとコの中庭。独身者が集う明るい食堂や店舗。
程よいコミュニティーを生む

竣工昭和2年9月
敷地坪数1274坪
棟数2階建2棟
総戸数158戸
附帯施設食堂、娯楽室
現状建替/1989年レイトンハウス竣工

関東大震災の被害は東京のみではなかった。横浜の被害も大きく、同潤会では当初からその事業エリアを東京と横浜に設定していた。三面接道の敷地に、コの字型の住棟を二棟並べる配置をとり、住戸へはアーチをくぐり抜けて中庭よりアプローチする。敷地西側の角地に位置する一号館は、西側の街路に面して店舗併用住戸が作られ、上階に独身室、同じ棟に娯楽室と食堂が設けられていた。二号館は家族向けとなり中庭をコの字に囲み程よいコミュニティーを内包していた。アーチを有するエントランスがモダンであった。

平沼町アパートメント

上:同潤会『事業概況』1928 左下:『同潤会十年史』1934 右下:『建築世界』

映画「東京物語」のアパートメント

竣工昭和2年12月
敷地坪数754坪
棟数3階建1棟
総戸数118戸
附帯施設娯楽室
現状建替/1984年モンテベルテ横浜

映画『東京物語』(昭和28年小津安二郎監督)の1シーンにこのアパートの一室が写る。玄関を入ったすぐ左には茶箪笥と人造石研ぎ出しの流しがあり、四畳半の畳部屋には洋服箪笥と座り机、ミシンと和箪笥が置かれ、部屋の中央には卓袱台がある。そこに慎ましくも気高さを保つ戦争未亡人役の原節子が、亡き夫の両親を迎える部屋だ。アーチの回廊で中庭を繋げる配置は、同潤会の会報においても「瀟洒な三層の建物」と取り上げられる評判のアパートであったが、同潤会の中でもっとも早く解体された。

三田アパートメント

左:『同潤会会報』 右上:『同潤会会報』 右下:『建築世界』1931

円柱のピロティ
公園に囲まれた清楚な文化住宅。

竣工昭和3年2月
敷地坪数404坪
棟数4階建1棟
総戸数68戸
附帯施設なし
現状建替/1988年シャンポール三田

重厚な赤煉瓦造りの慶応大学の洋風建築の近くに、スマートな文化住宅として登場した一棟建ての小さい瀟洒なアパートメント。山下町で試みられた、エントランスのアーチ上部に居室を配するモデルや、表の街路部分は四階建て、裏側を三階とする街路と住棟との構成は、清砂スタイルを踏襲したものであった。近隣には芝公園や芝離宮恩寵公園があり、「忠臣蔵」でなじみ深い泉岳寺がある。

三ノ輪アパートメント

上:『同潤会会報』1934 下:『建築世界』1931

きちんと整列、お手本の優等生

竣工昭和3年6月
敷地坪数263坪
棟数4階建2棟
総戸数52戸
附帯施設娯楽室
現状建替/2010年BELISTA東日暮里

四階建の二棟が整然と整列して向き合う小規模なアパートメント。この三ノ輪アパートメントの周辺は、関東大震災以前は不良住宅が密集する地区として有名であったが、復興土地区画事業によって、街並みは一変した。このアパートメントはそのモデル事業であった。中廊下型の独身住戸が四階に配され、三階までの家族向け住宅からキャンティレバーでせり出しているのが特徴。

鶯谷アパートメント

左:『建築世界』1931 右:撮影/兼平雄樹

螺旋、丸窓、丸池、曲線のラビリンス

竣工昭和4年3月
敷地坪数867坪
棟数3階建3棟
総戸数156戸
附帯施設なし
現状建替/2001年リーデンスタワー

円形のモチーフがところどころに表れ優美、ブルーの木製扉はヨーロッパの街区のようであり、アパートメント一画がモダンに輝いていたに違いない。外壁や庇、窓台にも曲線が多用され、街並みや中庭に面する表情も柔らかい。設計担当は、青山アパートメントのファサードデザインもした人物で、直線を基調とした青山アパートメントに対して、曲線や丸窓のデザインを試みた、と後に語っている。地理的には下町であるが、江戸時代からの別荘地として発展した根岸の街並みの延長にあり、山の手風の設計が施された。

上野下アパートメント

撮影:兼平雄樹

モンドリアンの受付窓でお迎えします

竣工昭和4年3月
敷地坪数347坪
棟数4階建2棟
総戸数76戸
附帯施設なし
現状取り壊し/2013年

最後まで残ったアパートメント。清洲橋通りに面する1階部分はアパートの住民が経営する理髪店や飲食店などが営業している。喧騒の多い清洲橋通りからアパートの正面側に曲がると一変して静かな住宅街となる。敷地内には中庭を持つタイプではなく、玄関前に庭を構えている。アパートの背丈を超す3本のイチョウの大木が周辺にも潤いを与えていた。手摺のパイプを円弧状に曲げ親柱を省略した階段室や、受付の窓格子など、ところどころにモダニズムデザインが施されていた。

虎ノ門アパートメント

『同潤会十年史』

真鍮とウォールナットの扉。
スーツに身を包んだビジネスマンの館。

竣工昭和4年6月
敷地坪数201坪
棟数6階建1棟
総戸数64戸
附帯施設食堂、エレベーター
現状建替/2003年大同生命霞ヶ関ビル

オフィスとアパートの複合建築物であった。下層部を同潤会の事務所、上層階を独身男性専用のアパートとした。都心の超一等地に食堂、浴室を備えたエリートの独身男性専用の城が出来た、と話題になった。ウォールナットのメインエントランスの扉や、鉄製の手摺子の螺旋階段は重厚で、ビジネスマンのスーツが似合うような重厚は空間であった。戦後1950年よりは東洋鋼鈑株式会社本社ビルとなっが、後に解体され、現在は隣に立つ超高層ビルのための公開空地となっている。

大塚女子アパートメント

撮影:兼平雄樹

サンルームで、ピンポンを。
モダンガールの優雅な休日。

竣工昭和5年5月
敷地坪数363坪
棟数5階建1棟
総戸数158戸
附帯施設食堂、浴場、日光室、音楽室、応接室、エレベーター
現状取り壊し/2003年

まだ社会的には女性が参政権も持たない時代にこれほど、斬新で話題に富んだ集合住宅は他に無かったのではないか、と思わせるほどのハイカラな生活様式の提案をしたアパートメント。入居したのは、タイピスト、教師、女医、婦人記者など、ハイカラモダンガールとして自立した、第一線の職業婦人たちであった。エレベーター完備、屋上にはガラス戸で囲まれたサンルーム、音楽室もあり、独身女性の憧れの館であった。

江戸川アパートメント

撮影:兼平雄樹

江戸川のバーバー、共同浴場、
憧れのエレベーター。そこは私のふるさとです。

竣工昭和9年8月
敷地坪数2061坪
棟数6階建(地下1階)1棟、4階建1棟
総戸数260戸
附帯施設児童遊園、社交室、浴場、食堂、理髪店、娯楽室、エレベーター
現状建替/2003年建替

同潤会後期のアパートメントとして、復興目的よりも理想的な住まいの提供に重点を置き、結成十年の技術と経験の叡智の集大成とし「東洋一」の理想的なアパートメントを目指した。都市居住型住宅を追求した設計と、最先端の技術を盛り込んだ住戸プラン、中庭を取り込んだ環境づくりは、創意工夫に満ち、生活と密着したデザインが融合していた。また住人も、ここに住まうことに誇りをもってそのコミュニティを大切にし、共同施設や店舗での触れあいや営みを愉しんだ。
まさに、デザインがQ.O.Lのためにあった時代の結晶。