大野美代子さんを巡る

聞き手
  • 井出昭子(日本インテリアデザイナー協会副理事長)
  • 池上和子(エムアンドエムデザイン事務所)
  • 岩田希美(脇田美術館)
編 集
  • 岡部三知代(ギャラリーエークワッド)
喜多俊之
プロダクトデザイナー

大野さんとの出会いは、ご本人のデザインされた素敵な松のスツールが始まりでした。新しいのに、それはずっと前からあったような、座面に手でこう具合よく持てるような穴が開いていて、とても豊かな、親しみやすい感じが印象的でした。一方、大野さんのデザインする橋もダイナミックでスツールに共通する、機能的で基本的に人にやさしいデザイン、周りの日常に合って豊か。デザインには、いろいろな役割がありますけれども、その役割として、人や自然への思いやりが重要なことだと思います。大野さんは橋のデザインにも、力学や素材などといった、大きな塊を綺麗に料理して、自然に合わせておられた。これはもう、理論というより大野さんのセンスとデザインコンセプトそのものだと思います。

川上元美
デザイナー

大野さんが最初にデザインした蓮根歩道橋。あーっ、やっぱり女性の目で見てる、人への優しさっていうのかな。手摺やベンチなどにそれまでなかった表現をしている、それが印象的でした。彼女が以前から手掛けていた医療施設や家具のデザインの正義感溢れる視点と繋がっていました。土木でも家具でもデザイナーがプロデュースすることにより、外してはいけないヒューマンな視点、物と人との関係、環境との関係性が大切にされ、ミクロのスケールで人が触れて見る場面とマクロの視点で風景の中で見る場面の両面に、彼女は卓越した感性を持っていた。大野さんの成した一連の仕事は、土木業界にまさに風穴開けたっていう、まったくその通りだと思います。

松本哲夫
プロダクトデザイナー

大野さんは、剣持勇や松村勝男と出会うことによって、彼らの試行しつつ徹底して追求するという、デザインのプロとしての仕事への姿勢を吸収できたんじゃないかと思いますね。大野さんの仕事の姿勢は、まったく女々しい感じじゃないんですよね。主張するところはするけれど、とても大らかに構えている。男性とか女性だからとかではなくて、人格がそうさせるというか、大勢の人が仕事に絡んで協働していく上で、信頼できる存在というか、安定しているというか、かっこいい女性ですよね。並大抵の男でも出来ない、優れた大きな仕事を成し遂げた彼女の功績は大きいと思います。同じデザインの世界で仕事をしてきて、大野さんは同志のような存在でした。

清水忠男
共生環境デザイナー

70年代、留学先で取り寄せた日本からの雑誌に大野さんの作品が紹介されていて、「先輩、やるなー!」と嬉しく思ったものです。ことに「蓮根歩道橋」に感激させられました。橋全体のユニークな形状や歩行面の大胆なパターンに加え、欄干の低い位置には手すり、橋の中央部にはベンチが置かれ、写真には、お年寄りの休む姿。それまでの歩道橋のイメージとは大違いです。家具やインテリアデザインで知られていた大野さんらしい仕事だと思いました。歩道橋の目的を道路の上部を安全に横断するためのしかけだと単純化するのでなく、使う人々の心や体の多様性、地域景観との関わりへの配慮など、幅広く総合的に対応しようとする大野さんのデザイン姿勢が、優れた環境を生み出したと言えるでしょう。

川上玲子
テキスタイルデザイナー
インテリアデザイナー

大野さんはJID(日本インテリアデザイナー協会)の国内の活動だけでなく、国際的な、IFI(国際インテリアアーキテクト/デザイナー団体連合)の会議にも最初の頃から熱心に参加されていました。世の中がまだ国際的なことは遅れがちだった頃、1980年にJIDはアジアの中で唯一最初にIFIに参加しました。IFIの理事長だったスウェーデンを代表するデザイナー、オーレ・アンダーソンと大野さんは親しく、スウェーデンに滞在して一緒にコンペの作業もされていました。また、フィンランドのデザイナーとも親しく、彼らが日本に来るとよく一緒にパーティーを開きワインを片手に議論をした頃が懐かしく思い出されます。日本のデザイナーと海外のデザイナーとの交流に尽力されたと思います。

三井 緑
プロダクトデザイナー

1971年、二人で事務所を設立しました。家具、インテリアを主流でやっていましたが、しばらくすると橋の仕事が舞い込み、次第に土木につながる仕事がメインとなり大野さんは意欲を燃やしていきました。私自身は、身の丈の感覚で取り組んでいける住空間、家具のデザインに進みました。それから30余年経って脇田美術館で企画された「木のデザイン」コンペの審査員として私達は久し振りに再会しました。審査員の作品として出展したモノが大野さんも私も新作のベンチでした。隣り合って展示されていましたが、見た瞬間、大野さんのベンチは、彼女の個性と橋への尽きぬ思いが込められた“小さな橋”の様に思われました。

篠原 修
土木設計家

大野さんがインテリアデザインの出身と知ったのは、随分後の事だった。インテリア?確かに綺麗に収める処はそうかと思ったが、細くて弱々しい所は微塵もない。一緒に仕事をしているうちに段々に分かってきた。手は肉厚でしっかりしている。その内に何かの拍子で、手でハンマーか金槌を握って物を叩く動作を見せてくれるのだった。父が造船技師で、小さい時からの習慣なんですと言うのである。成る程、大野さんの中にはエンジニアの血が流れているのか、と妙に納得したのだった。綺麗でしかも骨太、それが大野美代子のデザインなのだった。こういう人はもう出ないのかも知れませんね。

ハンネレ・ヘルカマ- ローゴード
インテリアデザイナー

私は1964 年スイスの技術高等学校ETH で建築を学びました。学校の友人からパーティに誘われ、他の女の子も連れて来るように頼まれて、私は友人と同室の女の子を誘いました。その子が美代子でした。出会った瞬間私たちは友達になりました。ある日フィンランドの文化であるカレリア風ピロシキを出したときのことです。私には彼女の言葉が信じられませんでしたが、小さい時におばあさんが作ってくれたのをよく食べたと言います。彼女の母はロシア革命前にサンクトペテルブルクで生まれたのだそうです。私の祖母もその頃そこに住んでいて、同じ地域に引っ越しているので、おそらく二人は顔見知りであったと思われます。美代子とは楽しい思い出がたくさんあり、一緒にノルウェー、デンマークやシカゴ、サンクトペテルブルクなどへ旅行しました。

オーレ・アンダーソン
デザイナー

美代子との最初の出会いはケア・デザインでしたが、やがて私は彼女の橋のデザインの才能を知るようになりました。これは意思、夢、専念に比べれば正式な教育はさほど重要ではないという点でも極めて興味深いことです。美代子は芸術性、合理性ともに優れた能力を持っていました。そして同時に思いやりの心のある人でした。ある日私は橋の設計に関わらないかとスウェーデンのマルメ市から依頼を受け、すぐ美代子に声をかけてデンマークのエンジニアと三人でプロポーザルを作成しました。コンペでは優勝出来ませんでしたが、スウェーデンでの会合は私たちの絆をさらに深くしました。プロポーザルを仕上げた後、美代子は私と妻と一緒にスモーゲン島にやって来ました。妻の母は94 歳になりましたが、彼女の料理に対する美代子の褒め言葉を、長い間、誇りを持って覚えています。

写真上:2001 年、私はモダニズムと日本の和紙を使った照明にインスピレーションを受けて、テーブルランプをデザインしました。この照明器具には友人の名をとって「ミヨコ」と名付けました。