首都高座談会
大野美代子展によせて

出席者
  • 沼田昌一郎氏(首都高OB)
  • 大内雅博氏(首都高OB)
  • 安藤憲一氏(首都高代表取締役専務)
日 時
  • 2018年2月9日(金)午前10:00〜12:00
場 所
  • 首都高速道路技術センター会議室
聞き手
  • 池上和子(エムアンドエムデザイン事務所)

大野美代子さんとの出会い、エピソード

首都高に当時、椎泰敏という優秀な技術者がおりました。彼が赤塚公園歩道橋を担当し、非常に評判がよかった。その当時、次に計画されておりました蓮根歩道橋についての検討が始まりました。技術者で、ヨーロッパに留学して帰ってきた多くの方々が、「ヨーロッパじゃ、こんなデザインを土木屋のような無粋な人間がしていない。デザイナーが仕事している。」と申しました。そこでエムアンドエムの大野さんを紹介していただいたのが始まりですね。(大内)

蓮根歩道橋に、大野さんが「、お年寄りも渡るので、ベンチを置きたい。」と言い出したのですね。そういう主張をされて、でも東京都に協議したら「、歩道橋というのは渡るもので、休むところじゃないよ。」と言われたんですね。ところが、熱心な協議の結果、じゃあ試験的に導入しよう、ということであそこにベンチを置かしてもらったんです。それと、階段の上がるところに、眼の見えない人のために、点字シールを貼られた。そういうところが大野さんのきめ細かさなんじゃないかなと、思います。(安藤)

私が首都高から任命されて神奈川建設局長に赴任したんですが、高速道路を建設すると、最後に遮音壁のような付帯物が付きます。その遮音壁をどうやって見栄えよく仕上げるかの議論が始まって、じゃあ、大野さんにお任せしようということになりました。大野さんからは、仕事の納めの最後のときにいつも出番があったりして、それはそれでうれしいんだけれども、本当はやりたいことの本質とは違うかもしれない。もっと全体を見た景観デザインが出来るような仕事をやらしてもらえないか、という注文を受けたことがありますね。(沼田)

よく大野さんがおっしゃっていたのは、「ベイブリッジは女性で、鶴見つばさ橋は男性だ。」って、よくそういう言い方していましたね。ベイブリッジは女性的な橋なんだ、って。鶴見つばさ橋は男性的だと。鶴見つばさ橋は川上元美さんという男性の方がデザインされた、だからその違いなんですよね。女性的なケーブルの張り方とか、そういう工夫をしたと言っていましたね。(安藤)

仕事を共にされ、実現出来たこと

昭和52年のことで、首都高の人間が「景観に配慮することが大事」だと言い始めました。大野さんから、橋梁の付属物の話がでましたが、排水管とか遮音壁とか電らん管ていうのは、後に付けると、デザインを台無しにしてしまうんだと…。だから最初から考慮して考えておきなさい、それと、「景観」というのは厚化粧や、奇抜なものっていう発想ではなくて、つくられる土地に、ふさわしい構造物をつくることが、景観デザインだと、いつも大野さんに言われていました。だからその土地の履歴であるとか、周辺の環境であるとかをよく見なさい、と大野さんは教えてくれました。そこで、かつしかハープ橋の制風板などにその考えが生かされました。

しかし、もう一つの問題は色のデザインでした。かつしかハープ橋のタワーは、あの高さだと航空法では赤白の色なんです。大野さんと「このタワーは赤白じゃまずい、景観を台無しにする。」と航空局へ行きました。ルール上そうなってるからダメだと、何回か通って話をしてもだめなんですよ。ただし最後にたどり着いたのは、航空法の但し書きで、そこには、「特別な理由があればこの限りでない」とありました。「これはどういう場合ですか。」と聞くと、「首都高が百回来ても駄目だけど、地元の総意があれば考えてもいいかな。」と、担当者がヒントをくれました。それで、タワーが白で、桁がブルーのものと赤と白のイメージ写真を作って、町内会を周って、住民に署名をしてもらいました。それを航空局に持っていくと「分かりました。」と。「そこまで熱意があるんなら一ランク上の高さの航空障害灯を付ければ良いとしましょう。」ということでタワーは白になったんです。ところが今度は桁です。首都高の基準は当時コーラルピンクなんですね。基準上は四ツ木から葛西までピンクなんです。かつしかハープ橋のところだけ「ぜひ青にしたいんですけど。」と理事までかけあってようやく、「うん、青ってのは分かったけど、第三の青は駄目だよ。」と。第三というのはこれまでにない色ではなく、航空局がこれまで選択してきた色の中から選んでくださいという意味です。そこで湾岸色に決まりました。大野さんはもっと明るい青を期待してたんですよね、湾岸色よりも。ブルーグレーっていうかね、湾岸色を、ずーっと中洲に沿って引っ張ってくるならよし、と当時言ってくれて、それで基準を変えたんですよね。タワーのシルキーホワイトと、桁を湾岸色にしたという思い出がありますね。

そういう地域の方に署名をいただくなどしたので、地域の方に名前を付けてもらうことになって、名前を公募することにしました。当時あの橋は、S字型曲線斜張橋って言ってたんですが、応募の中の一つにかつしかハープ橋っていうのがあったんですよ。そういう思い出がありますね。

大野さんがご立派だったのは、「街のシンボルになる、あるいは町の人々に愛されるような橋を造りたい、それが本当の景観だ。」とよくおっしゃっていました。それが今脈々とつながってきていて、僕は初めのうちは、綺麗なものを造るっていうのは分かりましたけど、街の人に愛されるっていうのは考えつかなったです。大野さんは一番最初から意識されていて、我々にはない考えを植え付けてくださったと思います。(大内、沼田、安藤)