木下直之全集:今月の一冊:美術という見世物-油絵茶屋の時代

今月の一冊

「結びの神」は生人形

木下 直之

日本美術の19世紀

この本は「日本美術の19世紀」(兵庫県立近代美術館1990)という展覧会がもとになっている。その展覧会で考えたことの一切合切がぶち込んである、といういささか乱暴な言い方がふさわしいと思うのは、肝腎のその展覧会がそれまでの10年間の学芸員生活で考えていたことをすべてぶち込んだものだからだ。

今から思えば本当に乱暴だった。たぶん、手がつけられない学芸員だった。その証拠に、展覧会には出ていない高橋由一の油絵「甲冑図(かっちゅうず)」(1877、靖国神社遊就館蔵)が図録にはカラー図版で載っている。限られた予算の展覧会で、当然、印刷費も潤沢であるはずがなく、カラー図版はほんのひとにぎり、それにもかかわらず「甲冑図」を載せたのは再発見されたこの絵が「日本美術の19世紀」を象徴していると考えたからだ。詳しくは本書第8章「甲冑哀泣」をご覧いただきたい。

19世紀展ポスター

展覧会のポスターは今も部屋に飾っている(掛ける壁がないので置いてある)。本多錦吉郎(ほんだきんきちろう)という画家の「羽衣天女」(1890、現在は兵庫県立美術館蔵)が100年ぶりにアメリカの市場に出た。競り落としたコレクターを大阪に訪ねて出品交渉し、拝借することできた。まるで大天使ガブリエルのような翼を生やした天女は奇妙奇天烈である。だって、羽衣だけで空中を行き来できたのだから。これが19世紀末の日本人画家が望んだ姿だった。当時のひとびとのそうした姿勢、関心に寄り添いたいと思った。

私がふだん持ち歩いている無印良品ノート・6㎜横罫B5・40枚・ベージュの第1冊は1989年のもので、そこに2つの企画案が書いてある。すなわち「近代の検証—19世紀の日本美術」と「日本人の顔—近代美術と写真にみるわれわれの顔の変貌」の2案、結局、前者のタイトルを採用したが、後者での問題意識もすべて反映させた。展覧会の構成を書き出してみよう。

日本美術の19世紀—写真と絵画の間で起ったこと

Ⅰ 同時代人の肖像
Ⅱ 写真と絵画

1 日本人の顔
2 まだ見ぬ外国風景
3 記念と記録
4 演出された日本像

Ⅲ 日本建築の中の油絵
Ⅳ 見世物から展覧会へ

写真の時代

肖像と写真に強くこだわっていた。おそらく、江戸時代の絵画にとっての「写真」という言葉と、西洋伝来の写真術の両方に「19世紀的なるもの」を見出していたのだろう。そして、それを象徴する人物が島霞谷(しまかこく)だった。桐生の島家の土蔵から大量の遺品が見つかったという知らせを聞き、青木茂さんを誘って調査に出かけた。まるで明治初年に埋めたタイムカプセルを開いたかのような宝の山だった。霞谷は油絵も写真もよくしたからだ。ほぼ高橋由一ひとりに頼ってきた幕末の洋画事情がこれで明らかになった。

19世紀展油絵展示

建築と見世物への関心も大きかった。当時の会場を写した写真はたった1枚しか持っていない。やたら横に長い絵、やたら縦に長い絵を、日本建築の座敷らしく設えたコーナーに並べた。予算不足で畳は買えず、蓙(ござ)で代用したものの、企画者のメッセージは伝わったように思う。日本人が油絵を描き始めたころ、肝腎の油絵を飾る場所は鴨居の上か床の間ぐらいしか見つからなかった。美術をその表現の内部だけで論じてはいけない。それがどこで誰からどのように眺められたかを考えることも大切だとあらためて思った。

見世物の復権

乍憚口上と名づけた本書のまえがきで、静岡県立美術館の鈴木敬館長の発言に噛みつくかたちとなった。「学芸員は研究者たれ」という鈴木館長の発言を否定したわけではないことはよく読んでもらえばわかる。「美術館を見世物小屋にしてはいけない」と口にする時の、その見世物小屋にも見世物の論理があると言いたかったのだ。

そんな見世物の世界の肩を持とうと思ったのは、守屋毅や服部幸雄のお仕事(『近世芸能文化史の研究』弘文堂1992や『大いなる小屋』平凡社1986)に刺激を受けたこと、見世物から遠ざかろうとして美術館が築いてきた聖域に息が詰まりかけていたことなどがあるが、決定的だったのは、大阪千日前の国立文楽劇場で開かれた「新収蔵資料展—芸能と生人形」(1988-89)という不思議な展示を目にしたことだった。それは文楽人形の先に幕末の生人形を追いかけていた同劇場の土居郁雄さんの企画だった。

生人形を「いきにんぎょう」と読むのか「なまにんぎょう」と読むのか、それさえわからなかった。それまでに学んでいた美術史ではまったく聞いたことがなかった。これを私の企画した展覧会にも引っぱり込んだ。それは美術館を見世物小屋にもすることだった。

表紙

本書は、ちくま学芸文庫(1999)、ついで講談社学術文庫(2010)に迎えられたが、前者の表紙は生人形師松本喜三郎の、後者の表紙は同じく安本亀八の生人形が飾った。

さて、めぐりめぐって2017年春に私は静岡県立美術館六代目館長に就任した。本多錦吉郎の描いた羽衣天女が浮かんでいたのは三保の松原あたり、ちょうどこの美術館の上空になる。

「結びの神」は生人形

川添 裕

横浜国立大学教授(日本文化史)、本書編集者

木下直之さんと最初にお会いしたのは、1990年6月のことである。彼は兵庫県立近代美術館の学芸員で『日本美術の19世紀』展の準備の只中にあった。私は平凡社の編集者であった。

出会いの場をつくってくれたのは大阪・国立文楽劇場の土居郁雄さん。土居さんは、生人形(いきにんぎょう)に光を当てた先駆的なミニ展示『芸能と生人形』(解説文は樋口保美さん)を、同劇場で1年半ほど前に企画開催していた人物である。生人形に強く魅かれた木下さんが土居さんを尋ね、土居さんから生人形仲間と目されていた私が、同じ場に呼び出されたのである。その時、私は自社媒体の『月刊百科』誌上で「見世物絵を楽しむ」の連載をしており、生人形を取り上げたばかりだった。

「結びの神」は生人形であり、男女の縁ならぬ、当時いずれも三十代の男どもの縁を取り結んで、一夜、その話題でともに盛り上がったわけである。あとになって知ったことだが、木下さんと私は誕生日が同じであり(年齢は木下さんが二つ上)、まさに奇しき縁であった。

『日本美術の19世紀』展は9月に開催され、写真油絵、実物の石ころを貼りつけた漆絵、写真掛軸、着物を着た外国人を描く掛軸のほか、もちろん生人形の錦絵も陳列された。そして終了後の10月、もっと展開させて本にしましょう、まずは『月刊百科』で連載しましょうとお誘いしたのである。

3年後に出来上がった本はじつに盛り沢山な内容で、「美術」の通念にはおさまらない伝来の表現形式やイメージ・造形が溢れるように幕末明治の日本にあって、それらが西洋と葛藤し、また混淆融合し、ときにはわが見世物の形式が新来の「美術」を従えて、時代を表現していたことを解き明かしてくれた。それは「美術」の枠組を根底から問い直し、西洋的近代化の内実を問うものであった。

木下さんはしばしば、見事なくらいあっけらかんと、かつ戯れ言をはさみながら、興味本位に対象を語る。このいい意味での興味本位こそが、彼ならではの研究の原動力なのだと私は思っている。

嚆矢濫觴(こうしらんしょう) 学は以て已むべからず

志田 康宏

栃木県立美術館学芸員、文化資源学研究室修了

美術作品の価値体系のあり方に疑問を持ち、美術館や博物館の制度や歴史に関心を持ち、近代日本美術史の重要性に気付き始めた頃に出会った一冊が『美術という見世物』でした。この本の著者の先生に会いに行きたいと思い、府中から本郷へと赴き、文字通り文化資源学研究室のドアを叩きました。

初めて木下先生と対面したのは修士課程の面接入試会場でした。僕の提出した論文を手に、「私はこれは修士論文だとは思わなかったんだけど」と、開口一番に僕のそれまでの2年間を一蹴された先生の姿を今でもはっきりと覚えています。

木下先生のご指導の下で修士論文のテーマに高橋由一を選ぶには、その覚悟を決めるまでに数週間を要しました。その選択が、木下先生をはじめとした偉大なる先達の先生方に対する戦いのはじまりだということが重々わかっていたからです。

1980年代に急加速した近代日本美術史研究は、30年の時を超え、転換期を迎えているように感じています。先生方が積み上げてきた膨大な研究の数々は当然敬されてしかるべきものですが、30年に亘り蓄積されてきたその成果は、果たして第三者の目から適切に検証されてきたでしょうか。華やかで魅力的な成果がセンセーショナルに紹介されるその一方で、無批判なフォロワー向けのエンターテインメント性でコーティングされ見えにくくなった厳密な歴史研究の成果は、その妥当性を適切に疑問視されてきたでしょうか。

僕が文化資源学研究室に提出した修士論文は、『美術という見世物』も含めた近代日本美術史研究の蓄積を洗い直す中で見えてきた数多くの誤読や空白部分を読み直し紡ぎあげたものですが、一次史料も二次史料も徹底的に読み込み厳密な史料批判を積み重ねる歴史研究におけるこの基本的な手法は、木下先生に研究室でみっちりと叩き込まれた研究姿勢です。

100年後、200年後の研究者のためにも、僕はもうしばらくはこの30年積み上げられてきた近代日本美術史研究そのものを問い直す仕事を続けることになりそうです。僕の故郷と現在の職場どちらにもゆかりの深い高橋由一の研究も、もう少し続けるつもりです。

木下先生、もうしばらくお世話になります。